奈良時代の天平16年(744)、聖武天皇が流行り病を治めるため行基(668〜749)を開山として建立したとされる。文治元年(1185)壇ノ浦の戦いで平氏を討伐した義経(1159〜89)だが元歴2年(1185)、頼朝(1147〜99)に鎌倉入りを許されなかった。弁慶と共に満福寺にとどまり頼朝に釈明を試みた。頼朝に送った「腰越状」の下書きが残っている。硯の水を汲んだという池・義経手洗いの井戸・弁慶の腰掛け石・義経と静の物語を描いた鎌倉彫の襖絵がある。 4月には義経まつり(パレード・静の舞)が行われる。義経は頼朝の異母弟である。幼名は牛若丸。平治の乱(1159)で父義朝が敗れた後、牛若丸は京都鞍馬寺で過ごし、やがて己の素性を知る。奥州の豪族藤原秀衡は源氏に味方するとして義経を招いた。義経は頼朝の挙兵に応じ源義仲・平家討伐に活躍した。後白河法皇の信任を得て検非違使・佐衛門少尉となるがこれは頼朝の許可がなく、二人の不和が始まった。文治5年(1189)、秀衡を頼って奥州に潜伏するが、秀衡は死んだ。子の泰衡は頼朝の威に屈し衣川の館において義経を攻め、自害させた。義経をかくまったとして藤原氏は滅ぼされ、頼朝は陸奥・出羽を掌握した。腰越状には次のように記されている。「源義経、恐れながら申し上げ候ふ意趣は、御代官のそのひとつに選ばれ、勅宣の御使として朝敵を傾け、累代の弓矢の芸をあらはし、会稽の恥辱をきよむ」 義経の首は腰越で首実検(確認)が行われた後に捨てられ、やがて藤沢に白幡神社が建てられ祀られたという。

2005.06.16 満福寺(龍護山・古義真言宗)の紫陽花
 
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