文学案内板

稲 村 ヶ 崎

●「太平記」
鎌倉・南北朝時代の武将、新田義貞は、元弘三年(一三三三)五月、一族を集めて討幕の挙兵をし、
二十二日、干潟になった稲村ヶ崎の海岸線を突破して鎌倉になだれ込んだ。
鎌倉中が戦場と化し、幕府軍の善戦及ばず、東勝寺へ逃れた北条高時ら一門は自害し、幕府は滅亡した。
「太平記」(巻第十 稲村崎干潟と成る事)に次のように記されている。
げにもこの陣の寄手、かなはで引きぬらんも理なりと見給ひければ、義貞馬より下りたまひて、
冑を脱いで海上を遥々と伏し拝み、龍神に向かつて祈誓したまひける。
(略)みつから佩きたまへる金作りの太刀を抜いて、海中へ投げたまひけり。
まことに龍神納受やしたまひけん、その夜の月の入り方に、
先々さらに干る事も無かりける稲村崎にはかに二十余町干あがって、平沙渺々たり。
横矢射んと構へぬる数千の兵船も、落ち行く塩に誘はれて、遥かの沖に漂へり。不思議と云ふもたぐい無し。
(引用文献 新潮日本古典集成 新潮社 昭和五十五年)

●芳賀矢一作詞 文部省唱歌「かまくら」より
七里ヶ浜のいそ伝い/稲村ヶ崎名将の/剣投せし 古戦場

●文学碑
明治天皇歌碑
明治天皇御製 新田義貞
投げ入れし剣の光あらわれて
千尋の海もくがとなりぬる

ボート遭難・七里ヶ浜哀歌の碑
真白き富士の嶺緑の江の島
仰ぎ見るも今は涙 (以下略)

詳細は鎌倉文学館(長谷一−五−三・電話二三−三九一一)にお尋ねください。
平成八年二月
鎌倉市教育委員会
鎌倉文学館